2109.08.23

故郷はいつだって美しい。

 

故郷。まぼろしのようなふた文字。

朝焼けのふとんの中で、まどろみながら聞くカラスの声。霧がかった、坂道だらけの街。青い郵便ポスト。揺れる金髪。かなしいぐらい広い空。片足を失くした猫の、日差しを受けたレモン色の瞳。ガラスみたいなプールの水面。

 

ブルーベリーマフィン、食べようよ。」

 

煉瓦造りのアパートには、韓国人の、年の近い女の子が住んでいた。アパートの中庭にある深緑の池にはアヒルがたくさんいて、彼女と落ち合っては、しきりにパンくずを与えていた。

 

「ねえ、私の故郷に遊び来てね。」

 

いつだったか韓国人の彼女は、祖国へ帰っていった。最後に見た彼女の目の形だけは克明に覚えているのに、おおかたの思い出は、パンくずとともに池へ溶けてしまった。あの池の底には、あの子の名前がたゆたっている。

 

「最初の3ページを読んでおもしろい本は、アタリだよ。」

 

バランスボールみたいにまんまるなその先生は、スヌーピーと、ビートルズの「イエローサブマリン」が好きだった。教室には白黒のクラシックな犬と、英国ロックバンドの歌声がみっちり詰まっていた。

 

「、」

 

昼休憩は、長い。星条旗はいつまでもはためいている。いじめられっ子だったフランス人の彼女は、少しだけ寂しい笑い方をする。時おり故郷の言葉を話す。ヴァイオリンを弾く。

 

風が強く吹いて、音は聞こえない。記憶はとめどない。故郷、こきょう。なにひとつ確証はないのに、たしかな手応えはある。道にたたずむ夜中の自販機。まばらに瞬く夜の高速道路。あるいは、早朝の秋風。道に忘れ去られた白いハンカチ。思い出せない、声とかたち。

故郷はなおも、うつくしい。

 

f:id:tinui:20180901141250j:image